佐賀空港からJR佐賀駅まではバスで35分ほど。
お腹は空いていますが、まずは目的地まで移動します。
佐賀駅からは電車に乗って移動します。
駅の横にあるコミュニティホールで荷物を預かってもらい……
冬の田んぼや畑の中の一本道を歩いて……
到着しました。吉野ヶ里公園です。
弥生時代の大規模な集落の遺跡です。歴史の教科書などでご覧になった方も多いのではないでしょうか。
採取中心の生活であった縄文時代から、稲作をはじめとした生産中心の生活になるということは私たちのご先祖様にとってはちゃめちゃに大きなターニングポイントだったと思うのですが、当時の生活はどのようなものだったのか、主に住環境を中心に見てみよう……というのが、本日のテーマです。
正門から並木道を通り過ぎると、メインエントランスらしき大きな建物が見えてきました。こういうところには、大抵お食事処が併設されておりますので、まずはそちらで腹ごしらえをします。
みつせ鶏のから揚げ定食を発注。
鶏肉は九州北部を中心に育成されている佐賀県の銘柄鶏、お米は古代米の一つである赤米を使っていました。こういうその土地ならではを色濃く出したメニュー構成、大好物です。
美味しい唐揚げを頂きながら、この後お邪魔する遺跡エリアへと向かう歩道橋を眺めてテンションを高めます。
ご飯の後は、さっそく遺跡エリアへ。
早速、教科書で見たことがある『銅鐸』がお出迎えしてくれました。鳴らしてみると、鐘と風鈴の中間のような良い音がしました。
移動ルートですが、まずは近場の南のムラをぐるっと回って、最後は祭祀などが執り行われていたそうな北内郭にお邪魔することにしました。なお、吉野ヶ里遺跡内は無料の円内循環バスが走っています。行こうと思えば園内北部にある古代植物の森まで連れっててもらえます。
大体ルートも決まったし、さっそく見て回ろう……と思ったところで、最初の気になるポイントが発生してしまいました。
鳥さんが乗ってる鳥居的なものの両サイドに、めっちゃ殺意高めの防御壁がある。
後ほどボランティアガイドの方に教わり、自分でも調べて知ったのですが、当時のこの鳥居的なものは「入口」を示す目印だったとのこと。このような鳥居的な境界線の目印は、中国や韓国にもあったそうです。
確かに生産中心生活になったということは、生産量の違いと経済力や物理的な力の差は直結するでしょうから、『ムラ』を守るためには必要な装備です。鳥居に関しても、入り口の目印だったことは勿論なのですが、上に鳥をわざわざ置いたのは何かしらの宗教(まではいかなくても、『おまじない』)的な意味合いもあったのかしら……と、色々考えてしまいます。楽しいです。
考え出したら止まらなくなってしまうので、さくさくと移動します。
一般の人の住居エリアだったそうな南のムラに来ました。
復元された竪穴住居には入ることができるので、お邪魔いたします。
屋根の横部分が大きく開いているので、採光と通気性はばっちりです。煮炊きをするであろう炉の上には、のちの日本家屋の囲炉裏の上にもみられる煤(すす)除け的な、上に魚なんて乗せて干物が作れそうな網まであります。住宅のルーツは火をどのように使うかということを考えた昔の方の知恵が受け継がれて進化していったものなのかもしれません。
教科書でしか見たことがなかった高床式倉庫のネズミ返しもしっかりとチェック。
(そして、今まさに復元中な工事現場もうっかりチェック)
広い空、日が当たって黄金色に光る枯草、柵に囲われて安全を確保した立派なお家。
見学しているお客さんもまばらだったからせいか、歴史の魅力に酔っぱらいながら楽しく見学をしていきます。
ちなみに、当時の織物を復元したものも展示されてて、機織り大好き人間といたしましては、こちらでもハチャメチャに興奮いたしました。ってか、デザインと配色素敵では???
その後、物見やぐらや王の住居などがある南内郭の方へ移動してきました。この辺りは堀も掘られ、アップダウンが激しいです。
大切な米などの生産物や、指導者を守るためのしっかりした防御が見受けられます。
入口にはやっぱり鳥さんの鳥居。
物見やぐらには登れるようになっており、遺跡内を俯瞰的に眺められました。王の住居はより一般の方々のものよりも大き目な竪穴住居でした。
奥にあるのは倉や市があったエリア。手前や奥に幾重にも張り巡らせた柵が印象的です。
こちらは南内郭から南のムラ方面を見た風景。やっぱりアップダウン多めです。
余談ですけど、竪穴式住居の入り口はかなり低めなので、体を負ってお邪魔せねばならず、結構腰に来ました。
この時点で相当興奮して楽しくなっちゃってるのですが、まだまだ遺跡散策は続きます。